看護覚え書」に学ぶ、ナースのABC

フロレンス・ナイチンゲール 「看護覚え書」

看護であることー看護でないこと

(改訳第7版)より引用文献

230ページ 15補償(看護師とは)

【このブログの運営者】

40代女性精神科ナース現役30年目

いつも若くて綺麗!っていわれたい。

元気で過ごすため働けるまで働きたい!

現在は子そだても一旦落ち着き趣味さがしの日々でブログに出逢い現在。

 

 

40代『看護覚え書』ABC働くときに知っておくと得します。

看護師のABC

看護師が学ぶべきA
病気の人間とはどういう存在であるかを知る事である。

看護師が学ぶべきB
病気の人間に対してどのように行動すべきかを知ることである。

看護師が学ぶべきC
自分の患者は病気の人間であって動物ではないとわきまえる事である。

 

 

この部分をみなさん読んでみて、どう感じたでしょうか?

 

看護師の仕事を行うにあたり当然ですが、改めて誠実に業務に取り組まなければならないと再確認する内容だと思います。

 

精神科看護師においても、このABCの考え方が現場レベルで求められることではないでしょうか。

 

多くの看護師さん達が存在する中で、小さな存在である私も看護者の一人で、時には不快にとれる言葉を言われることもあります。

 

そして看護師も人ですから、素直に相手の存在を受け入れることが出来ない場合もあります。

 

しかし、基本に戻って改めて看護の仕事って?と考えると腑に落ちるのが、この看護師のABCです。

 

学生の頃は、よくフロレンス・ナイチンゲールの本も沢山読みましたが、基礎看護・各論に向けての必用な文章を記憶するといった勉強の仕方でした。

 

そのため、言葉の意味や、文章の意味などはイメージ出来ても、実際に体験していないので、ピンとこないことの方が多かった印象です。

 

学校を卒業し現場に入って30年たって、あらためて「看護覚書」読み返してみると、内容が共感できたり内容がとても素敵であるということに気がついたのです。

 

 

そんな思いを伝えたくなり、思わず執筆している次第です。

 

このように素晴らしい本は、時代が大きく変わってもどっしりとした存在感があり、今でも霞む事なく、多くの人を引き付けるのでしょう。

 

ネットが普及している中でも人の心は変わらない?

 

 

不思議なことに現在は人と顔をあわせなくても仕事ができ、十分な収入も得ている方も多い時代に、なぜ心に関しては圧倒的に関心があり不滅なのでしょうか、おもしろいですね。

 

それは、人がやはり生きた人だからではないでしょうか?

 

フロレンス・ナイチンゲールは、なぜ今の時代に読んでも最近書いた内容のように感じるか不思議です。そのように感じるのは、人の本質や倫理を究極に学んだ結果は今も普遍であるということなのかもしれません。

 

「看護覚え書」を再度読んでみてください。

私のように30年後とは言わずに、ちょっと現場を経験して読み返して見てください。

 

まるでフロンレス・ナイチンゲールがここ最近の現場で働いているのかのような錯覚を覚え、きっと驚きを感じていただけるかとおもいます。

 

ナイチンゲールが残した沢山の本の中から「看護覚え書」の一部抜粋ですが、

「え、これ、普段ある・・・。」といった内容が、本当にたくさんあります。

 

考えさせられる一部抜粋部分を見て下さい。

 

看護師は、患者の顔に現れるあらゆる変化、姿勢や態度のあらゆる変化、声のすべてについて、その意味を理解<すべき。

 

 

また、看護師はこれらのことについて、自分ほどよく理解している者は他にはいないと確信が持てるようになるまで、これらについて探るべきなのである。

 

 

一方、患者の表情や様子を何1つ観察しようとしない看護師や、また何か変化がありはしないかと思いもしないような看護師は、まるで、壊れやすい陶磁器の管理をしているようなもので、何も得られない道を歩みつづけ、けっして看護師にはなれないだろう・・・。

 

生活と密接する働くときのモノの捉え方

育った環境で働くことや人との付き合い方は個人差はあるものです。

 

しかし自分が仕事の内容ではなく誰かに不満を抱いているといたら?

 

じっくり自分の心に手をあてて考えてみると答えがみつかる可能性は大きいです。

 

たとえば普段の人付き合いでなんだか理由がはっきりしないのに受け入れることが出来ないと思いがあると、それは自分にはない何かをその方が持っていることに気付き自分が自分で不快感と言う感情を生み出しているときがあります。

 

自分は素敵な自分と言う言葉が私は好きですが、それは誰よりもまず自分が自分をきちんと認めてあげないと自分に失礼なのではないかと思うからです。

 

贅沢に過ごせるといいですが人間ですから物で満足することはその場だけと言う場面を見たことはありませんか?

 

自分の笑顔を自分で守りましょう。そんなふうに生きていけると顔に素敵なシワができますね。

 

看護師の素晴らしいところ

 

精神科看護師の素晴らしい所は、ナイチンゲールが指すこの部分です。

 

患者様の声や表情、いつもと何かが違う雰囲気をいち早く察知し、情報としてテーブルにあげて情報共有します。

 

患者様と直接かかわる頻度が多いのは、看護師の分野だと経験上かんじています。

 

 

入浴介助、清拭など清潔を維持したり、環境調整、悩みを聞いたり、会話もしたりと、医師の診療介助、看護の分野ではあらゆる部分に介入し、日勤や当直での対応、時間の制限はなく24時間交代で看護者は常に対応しているのです。

 

 

また、「何かおかしい」と感じることは、データでは表現できない部分となりますので、難易度は高いと思います。

 

自分のいつもと雰囲気が違う空気は勘から始まることも多いです。これは経験を重ねていき社会の一人とて生活もしていかなければ手に入れることは出来ない感覚です。

 

先輩看護師の言葉がどうして、患者様には響くのか?同じ内容の仕事をしても相手の受け止め方が違う事を体験した経験はありませんか?

 

不自然で漠然としっくりこない?

その答えを本で見つけた。

引用・参考文献:看護覚え書き・フロレンス・ナイチンゲール

12 おせっかいな励ましと忠告

 

20 病人に喜びを与える方法

病人のまわりの人たちや見舞客は、病人に悦びをもたらすように努め、また常にそのような話題の提供をわすれてはならない。ところが、あなたは面会を許した見舞客に対して、病人のほうが、その会話の初めから終わりまで、努力して自分の推理力と記憶力とを働かせながら聞かなければならず、その一方、見舞客のほうは、自分の悩みごとばかりを喋りたて、病人のために記憶力と推測力を働かせたりはまるでしない、といった場面が何と多い事か。

 

「あ、しまった!わたし考え事があまり多いもので、彼にあの件を話すのをすっかり忘れていたわ。でもあのことは彼も知っていると思ったのよ。」と見舞客が友人に言ったりする。いったいどうやって病人は「あの事を知る」のであろうか?

 

間違いなくこんな事を言う人にかぎって、実際には「考えごと」などほとんど何もないのである。仕事の悩みをかかえていて、「病人」に話そうと、いろいろな課題を頭の抽き出しに詰め込んでやってくるような人も多い。

 

私は何もあなたの悩み事を病人に打ち明けてはならないと言っているのではない。

 

むしろ話したほうが、病人に心配ごとを話すときであっても、同時に、悦ばしい話題も提供するようにすることが、絶対にできるはずである。

 

このように実際に自分がもしなんらかの病気になったときに、面会に友人がきてくれることは有難いが同時に気を遣うかもしれないですね。

 

一般的には本当に困っているときは、自分の思いって人に話すことって少なくないですか?相談する人は信頼している方には話すでしょうが面会に来た人に次々にはなすことってないですよね。

 

看護と仕事を長年にわたり経験させていただきながら多くのかたと出逢ってきましたが、みんな持っている基本となる土台。

 

全体的に大きくなった自分には必ず基本という小さな土台があります。

 

その土台も時には休ませてあげたいもです。病人いう言葉をフロレンス・ナイチンゲールは使っていますが、だれしもその「病人」になる可能性はあります。

 

ここで言いたいことは、相手を思いやり配慮をできるようになると仕事がもっと楽しくなると思います。これができる環境は看護の分野になるのだと思うと嬉しいですね。

 

綺麗な景色をみたい


病室のなかで天井だけをみる生活に自分がなったら?

 

まいにち時間になったらくる食事。栄養分は十分にあるといっても誰かと話すことがない食事になります。

 

フロレンス・ナイチンゲール

看護覚え書 「窓の外を見たいという病人の切なる思い」

記憶に残っている適切な例が1つある。それはある男性の例で、事故で脊椎に損傷を長期の病臥の末に亡くなった人であった。その人は労働者で、いわゆる「自然への欲求」などとはおよそ無縁な人であったが、その彼が必死になって「もう一度、窓の外が見たがった」のである。

 

そこで受け持ちの看護師は、彼を背負い、やっとの思いで患者を窓につかまらせて、いっときの間「外を見せた」のであった。その看護師は痛ましくも、そのために重病にかかり、あやうくあやうく命を落とすところであった。患者はその事実を知るよしもなかったが、他の多くの人々はこのいきさつを知っていた。

 

ところがわたしの知る知るかぎりでは、このいきさつを知っていた人びとの胸のなかに、次のような確信は生まれなかったようである。

 

すなわち飢えた眼が変化を渇望するのは、まさに飢えた胃袋が食物を求めると同様に、必死なものであり、いずれの場合もその渇望は飢えたひとを動かして、どんなことをしてでも満足を手に入れようとさせるものだ、ということである。

 

それは『必死』としか形容できないであろう。

 

『眺め』のない病床、何の変化も工夫もない病床、それは例えば調理場のない病院と同じでー。

 

しかもこのような配慮が、病人のばあいほど見事に功を奏する例はほかにない。詩人たちは「大自然の魅力」を情熱をこめて讃えあげる。

 

現在でも納得できることが多くかいてあるほんの一部です。改めて読んでみると素敵な考え方です。自分のスキルして取り入れ今後の自分の知識として知っておくと素敵ですね。

 

実際に病気になると景色は天井ばかり

現実的に入院をよぎなくされてベット上が生活の空間に変化したときに、その方はとてもつらいと思います。今まで簡単な作業ができていたことから一気に離れてしまい他人の手を借りることになります。

 

病院のスタッフといえども知らない初対面の方ばかり、中にはひ孫くらいになる方に手を借りることになります。

 

年配の経験の豊富なスタッフと、新卒のかたで同じ対応をしてもその方の心には響くものがどれほどあるでしょうか。

 

安心できる年代のスタッフがいれば不思議と仕事を超えて心を開きます。

 

これはそのそのスタッフが人生でもご苦労されて、入院されたかたも同じようにご苦労をされて現在まで生きてきたという共通点があるようです。

 

わたしが若い頃に先輩と同じ内容の説明をさせて頂いたときは、その方は私の話をさらっと流しているのに気がついていました。

 

ところが年齢を重ねてくると、やっと少し理解できたことは、相手が同年代のスタッフであれば、それだけで落ち着くようです。

ですから仕事のなかで、些細な事ですがお花を一緒にみたり、たまには他のものが食べたいとなれば家族のご協力のもと行動に移していくことができます。

 

見ないふりもできるかもしれない些細な不安などを見過ごさずに一緒に解決していきますよ。といった心構えを持つと相手は安心されるのでしょう。

まとめ

精神科看護師の他の職種ではできないところです。

 

感情の部分なので、勘や経験、背景とを結びつけアセスメントしながら、いつもアンテナをはり些細な変化に気が付くことができます。

 

その気が付いたことを、1つにまとめ上げなけなければなりません。

相手は人ですから、専門職としては、とても難しくやりがいもある職種ではないでしょうか。

こちらの記事↓↓↓では40代から働きながら穏やかに過ごすコツを具体的に紹介しています。

参考時事>>精神科ナース40代が体験から学んだ職場をかしこく選ぶ方法を公開!

参考記事>>40代から始めるゆっくりライフスタイル 私の場合